photo by naomix
3時30分 起床、車に乗り仕事にでかける。
北風が吹きつける中、頭上に星のわずかな明かりを感じる。
6時00分 空にまだ朝の匂いは感じられない。
地上に小さな明かりがともりはじめる。
6時45分 運行途中駿河湾上、伊豆連山から日が昇る。
その光は暗闇を喰らうが如く激しくそして神々しい。
美しさにしばし我と時を見失う、
"希望"
という言葉が、身体と魂に満ち溢れる。
うまくいい表せないが、この身体に満ち溢れたものは"希望"なのだろう。
これまでの人生で何度も転げ、立ち上がってきた。その時私の中には"希望"があった。
今、朝日を浴び感じているこの気持ちは、そう、これまでの"希望"と同じ感覚だ。
生き返るともいえる感覚だ。
希望が私の身体に満ちるとき、歩き続ける力が全身にみなぎるのだ。
人体は食することで命を保つが、人間はそれだけでは生きていけないのだと理解しはじめている。
魂にも力が必要なのだと思う。
何事も諦めた時に、終わりをむかえ、生命こそあれ人は死んだように生きることになる。
生命を保つには魂に命を注ぐ力が必要に思える。
私は朝日を浴びる度に知らない間に生きる力をもらっているのかもしれない。
かつてのネイティブインディアン達は自然とともに生きる術を知っていた。
自然の中で魂を保つ術を養っていた。
彼等にとっても朝日は"希望"であり、神聖なものであったという。
自然をそのように崇めていたのは、仏教が来る前の日本でも同じことだ、山に神有り、川に神有り、太陽に神がいる。
自然の残酷さと優しさに魂が生かされていたことを知っていたからこそ、自然を神とみなしたのだ。
自然と共に生きることはそういうことなのかもしれない。
現代において、古来の風習は残っていない。
しかしながら、太陽は我々の頭上にあり、汚れつつも山も海が生きている世界にまだ生きている。
自然を恐れながら、自然から魂に力をもらう事は我々の心一つで、だれでもできる。
現代文明の中で自分を見失う術の一つが自然を感じることなのかもしれない。
ネイティブインディアンも日本人も現代文明の中で、魂に生きる力を奪われたのだろうか?
ネイティブインディアンが守り続けた詩を綴った
ナンシーウッドの
「今日は死ぬのにもってこいの日」
を思い出した。