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当社、女子社員から深刻な顔で子供(小学5年生)についての相談を受けた。
勉強嫌いで困っていると言う。
夏休み、冬休みの最終日は宿題を終わらせるのに毎回困っているという。
この年齢の子供で勉強が好きなものなどいない。
そもそも"勉強"という文字を国語辞典で調べてみれば良い。
「そうする事に抵抗を感じながらも、当面の学業や仕事などに身を入れること」等の説明がある。日本の義務教育に強いられているものなのである。そのようなものをさらに親が強いる必要などないようにも思う。必要なのは学習なのではないだろうか。
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フランスの哲学者 ジャン・ジャック・ルソーは教育について、こう述べている。
■一見したところなんでもやすやすと学べるということは、子どもにとって破滅の原因となる。そういうふうにやすやすと学べるということこそ、子どもがなに一つ学んでいない証拠であることが人にはわからない。
■世界で一番有能な先生によってよりも、分別のある平凡な父親によってこそ、子どもは立派に教育される。
また、レオナルド・ダヴィンチは学習についてこうも述べている。
■食欲なくして食べることが健康に害があるごとく、欲望を伴わぬ勉強は記憶をそこない、記憶したことを保存しない。
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小学5年生ならば、友と遊べばよい。海に山に川に、動物とたわむれ命を学び、自らの残酷さを知り、恐れと友情と裏切りを学ぶべきだ。(都会とは言え、海も山も川もまだある。)
そして、母親として生きている姿を見せてやればよいのではないだろうか?
よくも悪くも、その姿から彼は社会で生きる術を学ぶだろう。
その時、彼が学校という閉鎖された組織の中で、学業というもの嫌悪を示した時にはじめて、社会で必要とされる教養について語れば良いのではないだろうか?自分がそうしてきたように。
(ゲームを買い与え勉強を強いるのはいかがなものであろう。)
私の人生で私を何度も救ってくれたのは「挨拶」「読み」「書き」「そろばん(計算)」そして、何より友人だ。彼が人生を歩む時、夢に立ち向かう時、本当に必要であれば自ずから学習するだろう。その時必要なものは、肩書きでも、学歴でもない。本人がそうすることへ一歩踏み出す勇気と情熱だろう。人として道を踏み外さない道徳を倫理観を自分の生きる姿で見せることが教育なのかもしれない。
女子社員の顔に僅かながら明るさが戻る。